朝鮮語とわたし

このページにはわたしが朝鮮語を学ぶにいたってから,現在までの学習歴と研究歴などを書いてあります.
あまり,朝鮮語そのものとは関係ありません.

  朝鮮語学科に入るまで

ぼくが朝鮮語を始めたのは大学に入ってからのことです.中学生になって英語を勉強し始めてからずっと外国語が好きで,それは高校時代も続きました.高3になって志望大学を決める時も,ただ外国語が好きという理由で外国語学部がある大学をいくつか受験しました.受験と言うと1校入試を受けに行くだけでもとても疲れるし,滑り止めの大学を受けるのも疲れるしお金の無駄だと思ったので,かなり受験する大学をしぼって受験しました.結局は東京外国語大学に行くことになるんですが,センター試験を受けて,志望学科を決めるにあたってかなり悩みました.東京外大は外大というだけあって学科が26もあります.センター試験の結果も考慮しないといけないですし,学科によっては定員が5名程度という所もあります.最終的に中国語と朝鮮語で迷った末,朝鮮語を選ぶことにしました.朝鮮語について当時ぼくが知っていたことと言えば,高校の歴史の先生が授業中にちょっとだけ教えてくれたことのみ.ハングルっていう面白い文字があるんだよってことと,日本語と語順がほとんど同じなんだってくらいのことを教えてくれたような気がします.結局,そーいえば YSMZ先生があんなこと言ってたなーと思い出し,朝鮮語学科を選ぶに至ったのです.今のぼくがいるのはもとをただせばYSMZ先生のおかげ(?)かもしれません.

 

  学部時代(1,2年)

   学部1,2年の時は専攻の授業が週に6コマあった.母語話者の先生が2人会話の授業を担当して,日本人の先生は文法を教えてくださった.最初の授業が始まる前に自分で勉強してきたえらい人たちも何人かいたが,ぼくはのんきなもんで授業が始まるまで何もしなかった.おかげで,朝鮮語の字母を覚えるだけでも苦労した.授業はどんどん進んでいくのにハングルを読む時に一瞬悩んでしまうことがよくあった.短母音は覚えやすかったんだけど,合成母音が覚えにくくてまいった.特にㅙㅟㅞㅚㅝが最初の内こんがらがったのを今でも覚えてる.ついでに,朝鮮語は発音が変化するものが多くて,文字通りに読まない単語が多い.これを覚えるのにも苦労した.発音もよく分からなかった.特に濃音.でも,予習と復習を欠かさずやってなんとか頑張ってる内に読めるようになっていた.発音もいいとは言えなくてもそれなりにできるようになってたんじゃないかと思う.
  
外語大は授業が進むのが速くて,夏休み前にはもう初級の教科書は終わっていたような気がする.週に6コマと言っても,実際土日は休みなので1日に授業が2コマある日も当然あるわけだ.そんな日の前は予習が大変だった.それが,学部2年が終わるまでずーっと続いたのだ.ついでに言うと,単語テストが1ヶ月に大体1.5〜2回くらいのペースであった.一回に覚える単語数は100語ちょっとだったような気がする.今外大ではN先生が作られた『暮らしの単語集韓国語』を使っているから意味を調べなくてもいいんだけど,当時はただ手書きの単語リストが渡されるだけでそれを調べるのでも一苦労だった.友達と分担して調べたりしてたような気がする.
  
夏休みの宿題も学生泣かせだった.S先生はA4何枚かにわたって書いてある色々な詩人の詩を解説書などの類をまったく見ずに,自分の力だけで訳して来いというものだった.当時朝鮮語を始めて3ヶ月くらいしか経っていないぼくたちにこの課題はかなりきつかった.既存の訳などを見て書くと,さすがは朝鮮文学の権威だけあってすぐにばれてしまい怒られている人もいた.同じ時にN先生は20ページくらいの短編小説を自分で探してきて,それを全訳するというものだった.これも制限があって,全訳というだけに「この単語はわかりませんでした」という言い訳は通用しない.大学の図書館にある辞書と言う辞書を全て引いてみてそれでもその単語がない場合にのみわからないと言ってもいいというものだった.文法研究をやって来いという宿題も出た.自分でテーマを決めて,用例をちゃんと集めて,先行研究も読んで自分で分析するよういうような,今自分がやっているような研究を学部でやらされた.これも何をどうしてよいのかよくわからず,1回はできないと思って半分あきらめたのだけど,出さないとまずいよって友達に言われて心配になり,締切を過ぎてから先生のところへ持っていた.後に先生の研究室を整理している時に,その時のレポートを見つけたのだけどはずかしくて見れたもんじゃない.

   授業自体はもちろん厳しいものだった.その中でも一番厳しかった(怖かった?)のがK先生の授業だ.テストも一番難しかったし,講読をしていた時は分担を決めてその人がその部分を訳すという方式だったのだけれど,自分が当たっている時に予習をしてこなかったり,授業を休んだりすると,その時点でもうこの授業には出てこないでいいと言われる.もう来るな出て行けといわれると,次の時間から授業に出てきてもいないものとみなされる.ぼくは幸運にもそういうことはなかったけど,そういうのを見るだけでもどきどきしたことを覚えている.
   外大は1,2年の時に留年する人がとても多い.なぜかと言うと,専攻の6コマの単位が全て連動していて,ひとつでも不可をもらうと他の5つも自動的に不可になり,その時点で留年決定ということになる.朝鮮語学科は26ある学科の中でも1,2を争うくらい留学率が高く学内でも有名だった.そんな学科だとは入学する前には知る由もなかったのは言うまでもない.ぼくらの1年先輩たちは3人に1人が留年していたくらいだ.毎年学科で追いコンがあるのだけれど,その時一人づつ呼ばれて宣告を受ける.今もそうなんだろうか?
   1,2年の時はまだ専門は分かれていなく,言語をみっちりと勉強するわけだが,概論的な授業もあった.朝鮮語学科の先生が順番に自分の専門分野についての概論的な話をしてくれる授業があった. ぼくはK先生が話してくださった言語学,朝鮮語学の時間が一番面白かったんだけど,ここだけの話そう思っている人はそれほどいなかったらしい.
   色々あったけど,とりあえず留年せずに3年生になれることになった.2年生の3学期になると3年からの専門を決めないかった.当時,ぼくは国際関係だとか朝鮮語学よりは華やかに見える(当時のぼくにはそう見えた)ものもやってみたいと思ったりもしていた.そんな時に,言語の方にも進もうかなと思って同期の友達と話をしていたのだが,それがN先生の耳に入ったらしく,N先生が朝鮮語学を専攻するんだったら早めに申告しなさいとおっしゃっていたということを友達を通して知った.概論の授業の時も言語の回が一番楽しかったし,とあるヒンディー語学科(だと思う)の先輩が「せっかく語学専攻の先生が多い外語大にいるのに勉強しないのはもったいない.ぼくもやっておけばよかった.」というようなことを言っていたのを思い出した.後で後悔するのも嫌だしやってみようなかなーと,そんな感じで3年から朝鮮語学を専攻することになるのだが,それからがまたとても大変なことばかりだった.

 

  学部時代(3,4年)

   今も昔も3年から語学を専攻しようという学生はとても少なかった.なぜかというと,1,2年の頃からそっちの分野はすごく厳しいということで有名だったからだった.毎年1人いるかいないかくらいだったのだけど,ぼくの時は2人いて今年は2人も来るなんてすご いことだと先輩に言われたくらいだ.
   語学を専攻すると3年生からゼミの授業に参加して,発表などを繰り返し,卒論を書くというのが慣わしになっていた.
大学院の先輩や韓国の大学から来ている留学生たちも一緒にゼミに参加するのだけど,それでも人数は8人くらいしかいなかった.そこに先生が3人もいるのだから大変だ.K先生,N先生,I先生の3人の先生と先輩たちの前で発表するのはとても緊張することだった.最初のうちは言語学の基礎的知識もまったくない状態でみんなが何を討論しているのかもよくわからない状態だったし,みんなが朝鮮語で話し出すともうお手上げだった.何を話しているのかすらわからない状態なのだ.それでも,当然順番はやってくるもので,緊張しつつ発表をした.内容は詳しくは覚えてないが,今思うとよくあんな発表ができたもんだとはずかしくなる.当然,K先生にはこっぴどくしかられてしまったことは言うまでもない.それでも,ぼくがいた頃は昔より怖くなかったということだった.あんな発表でも聞いてくれて,後でアドバイスをくれた先輩方にはとても感謝している.どれほどぼくがあほだったかというと,ぼくが3年生の時,N先生が韓国へ研究に行っていていなかったのだけど,先生があいつは大丈夫なのか?と心配して韓国からファックスをくれたりするくらいだった.
   それでも,とにかく欠席は許されないので毎回参加し,後は先生に言語学関連の他の授業でこれをとりなさいといわれた科目も履修しなければならなかった.中でも印象的なのはM先生の音声トレーニングの授業だった.簡単に言えばIPAの表にある子音と母音全部を発音できて,聞き分けられるようにしようというものだ.本当は半期の授業だったのだけれど,ぼくが入学した年度まではカリキュラムが異なっていて通年の授業だった.なので,その人たちだけに別の課題が課せられた.課題は英語で書かれた音声学の入門書をすべて日本語に訳して来いというものだった.かなりの量を翻訳して1ヶ月ごとに3,4回提出するというものだった.一字一句抜かさず全て訳すというのがやはり大変だったのと,音声学の術語を日本語にどうやって訳すのかという問題もあった.悩みながら訳したのだけれど,後で大学院の入試を受ける時にはとても助かった.やってよかったと思う.授業は先生が発音した字母を学生が順番に発音していくという形式.毎回いくつかやっていくのだが,人によって得意な発音と不得意な発音があって,簡単にできるものもあればとても時間がかかるものもあった.テストも先生が発音した音をIPA記号で書くというものと,1対1で座ってIPA記号が書いてある紙を突然渡され,それを順番に発音していくというものだった.
   いつだか大学院に進学するのかどうかN先生に尋ねられたことがあった.大学院に進学すると少なくとも研究者になるなら30過ぎるまで就職はできないし,この分野で大学院を出ても就職がいいとは言えないよというようなことを言われたのだが,あまり物事を深く考えないぼくはそれでもいいやと思って進学しますと答えてしまった.先生の言葉通り20代後半になった今でもこうして学生をやっている.もちろん,学生なのでお金もない.
   4年生になると普通は授業のコマ数が減って,就職活動とかをしているのだけど,そんなものとは無縁の世界へ行くことに決めたぼくは4年になっても授業だけは多かった.あほなので,卒業単位とは関係なくても勉強はしなくてはならない.勉強だけでは息がつまるのでもちろんそれなりに遊んでもいた.物事けじめが大切.運動もしなくちゃなーと思って,もうとる必要のない体育の授業に先生にお願いして特別参加させてもらい,バスケを1,2年生に混じってやったりもした.これは大学院に入って少し経つまで続けた.最近もやりたいのだけど,だんだんそんなことやってる時間がなくなってきた.それはいいとして,秋頃になると大学院の入試勉強も集中してやり始めた.入試は音声学と言語学に関する基本的な問題,外国語,自分の専攻の問題があった.音声学はM先生のおかげでやらなくてもよかったので,ぼくは言語学と自分の専門の朝鮮語,英作文とかを中心に勉強した.言語学は過去問を見たり,他大学院の過去問に出てきた言語学用語を言語学大辞典でとにかく調べまくるということをした.毎日図書館に残って,ひたすらノートに写しまくり,うちに帰ってそれを覚えるを繰り返した.専攻は特にできの悪かった中期朝鮮語を勉強した. 故S先生の『諺解三綱行實圖研究』に出ている文法事項を,これもまたノートに写してまとめまくった.この時の入試勉強のおかげであほさ加減が少しはよくなったのではないかと思う.同時に卒論も書かないといけないので家に帰ってからは卒論をがんばってやっていた.当時はがんばって書いたつもりなのだけど,今ははずかしくて誰にも見せられない.
   入試は専攻の試験が一番辛かった.音声学,言語学,英語は自分でもそれなりにできたなーという実感があったが,専攻の朝鮮語がおそろしく難しかった. できる部分とできない部分の差が大きかったのではないかと思う.中期朝鮮語は勉強して行ったのでそれなりに解くことができた.その後なんとか2次試験まで無事に終わって,大学院入学が決まった.

 

  大学院時代(修士課程)

   なんとか大学院に入学できた訳だが,これで勉強が終わるわけではなく,むしろこれからが本番といったところ.入るとすぐに修士論文の題目を事務に提出しないといけなかった.この頃から中期朝鮮語に興味を持ち始めていて修士論文のテーマは中期朝鮮語にしようかと考えた.現在のテーマはとある授業中にI先生がこれはどうしてなんですかねーと悩んでいたのを思い出し,だったら自分が研究してはっきりさせてやるという思いで選んだテーマだ.指導教授のN先生に相談したら,いいんじゃないかということで,具体的なことについてはI先生と話して決定し,研究の範囲なども決定した(何を研究したかは論文,学会発表のページをご覧ください).最初はとにかく先行研究を集めて読みまくったのだけど,中期朝鮮語の-오/우-については論文がかなりの数あって集めるのだけでも大変だった.
  1年目にとった表現演習の授業は韓在永先生が担当だった.これは学部生と共通の授業で大学院生は分かるだろうからでなくてもよいということになる.しかし,出ないかわりに2週間に1回くらいの割合で自分の研究テーマについて先生の研究室で1対1で話し合う(もちろん朝鮮語で)というものだった.1回終わると次の日にちを決めて,先生がこういうことをやって来なさいと指示する.この授業のおかげで先行研究を読むのも進んだし,先生にも色々と意見を聞くことができてとてもよかった.
   1年の秋に第148回
朝鮮語研究会で発表をしろとN先生に言われる.発表するテーマは勿論卒論で書いたものしかない.しかし,卒論ははずかしくてとても発表できるレベルのものではなく,発表が決まってから死に物狂いで修正などを加えた.学会での発表は初めてだったのでとにかく緊張したのを覚えている.場所は神田駅からすぐの神田外語学院.死に物狂いでやったせいか,大学院の入試の勉強で多少鍛えられたせいか,卒論よりは格段よいものになった.が,K先生に色々とつっこまれ大変だった.やはりまだまだである.でも,この発表のおかげで論文も直すことができたしよかった.しかし,この後この論文は数年間眠りに入り,博士課程に入ってから朝鮮学報に載ることになる.この発表とほぼ同時に朝鮮語研究会149・150回記念大会があった.というか,当時は実働可能な大学院生がほぼぼくしかいないという状態で,準備を実質N先生とぼくとでやっていたので本当に忙しかった.148回の発表準備もあったし.会場の準備やお弁当,懇親会の手続き,予稿集のまとめと製本,お金の計算,当日の手配,写真やビデオ撮影などなど.今だったらもっと人がいるので多少は楽だろうにと 今更言っても仕方ない.でも,大会は150-200人近くの人が来てくれて大成功だった.そこでK先生が発表をなさったのだが,そこで前回の研究会でのぼくの発表した内容についてお話をした.内容は批判と同意が半々といったところだったが,ぼくの書いた論文をK先生が相手にしてくれたというのがとにかくうれしかった.このことは今でもはっきり覚えている.早いもので,今年(2003年)の秋には200回記念大会がある.
    2年生の夏休みだったか記憶が確かでないが,夏のゼミ合宿が泊まりで行われることになった.それまでは,外大の教室を借りて2日か3日にわたり朝から晩まで全員が発表をして質疑応答をするというとってもきついものだった.場所が変わったからといって辛さが変わるわけではないが,気分が変わっていいものだ.最初の年は河口湖に行った.次は埼玉のどこか.夜はみんなで宴会で楽しく過ごした.昼間はせっかく河口湖まで来ているのに,ずっと会議室でお勉強.きっと日本でも1,2を争うくらいまじめなゼミ合宿だと思う.同じ年の夏休みには外大の引越しもあった.西ヶ原から現在の府中キャンパスに引っ越すことになった.引越しのうわさはぼくが学部時代からあったがようやく実現したわけだ.あまりたくさん手伝いに行けなかったけど,何度か引越しのお手伝いに行く.ぼくは西ヶ原キャンパスが好きだったのでちょっと寂しかった.とても小さいキャンパスで移動も楽だったし,構内を歩いていると必ずと言っていいくらい知り合いと出会った.都心にも近くて便利だったし.
   話は変わり
この年,突然ウズベキスタンに留学をしたいと思う.なぜかというと,ウズベキスタンの公用語はロシア語とウズベク語なのだが,ロシア語はアスペクトの研究には欠かせない言語だし,ウズベク語は膠着語でぼくがちょこっと勉強したトルコ語と割と似ている言語なのだ.この2つの言語を一度に勉強できたら,今後の自分のためにもきっとものすごい糧になるだろうと思ったわけだ.しかし,学内選考は通ったのだけど,文部省の方で奨学金を出してくれないということになり,私費でもいいなら行ってもいいよと言われる.私費で行けるなら最初から文部省の留学生に応募はしない訳で,結局ウズベキスタン行きを断念する.修士課程にいる間に留学するつもりで修了を1年延ばしたのだが,無駄に終わった.
   同じ年の秋に
留学はだめになったけど,総務庁の派遣で韓国に行くことになった.普通では見学できない所も見ることができたし,何より日本と韓国に友達がいっぱいできてとてもよい経験だった.彼らとの出会いで韓国語を話す機会も増えたし,韓国人側は同じ年と年下しかいなかったのでパンマル(반말
もたくさん使うようになった.留学中の現在もたまにあって話をしたりしている.
   図らずも修士3年目に突入してしまった頃からとあるところで韓国語を教えるバイトを始めた.教えるのは初めてで,最初のうちは慣れないで辛いこともあったけど,慣れてくると説明もそれなりにうまくなってくるし,授業の時間も読めるようになってきた.教えることでもう1度朝鮮語を最初から体系的に整理することもできて自分の勉強にもなった.韓国に留学するまで2年間続けたのだが,これは本当によい経験だった.それに,生徒さんたちと休み時間に話をしたり,飲みに行ったりするのもまた楽しかった.生徒さんがみんな特別な職業の人だったので,仕事の話を聞くのも面白かったし,仕事関連の特殊な語彙や資料なども収集することができた.
   3年目も秋になるといよいよ修士論文を仕上げないといけない.用例の収集などは1年目にとっくに終わっていたのだが,なかなかすっきりとした結果がでないで悩んでいた.ずーっと考え続けているうちに,なんと11月に突入してしまう.論文の提出締め切りは1月10日くらい.その頃から神保町に通いつめ関連のありそうな日本語学の本を買いあさり,読みまくった.とにかく読んだ.お金も使った.色々読んで自分の研究に適応できそうな概念などがないか考えて,試してみては失敗し,を繰り返すこと1ヶ月ちょっと.移動する時は本と用例を必ず持ち歩き,とにかく色々な側面から分類を試してみる.電車の中とかのが遊んでしまう こともないし,時間が決まっているのでかえって集中できた.そしてついに,12月中旬も過ぎた頃やっとこれだ!というのを発見.2週間くらいで書いては直しを繰り返しなんとか締め切り前に仕上げることができた.12月は寝ないで朝まで修論やって,そのまま仕事に行ったりということもしょっちゅうだった.勉強だけでは息切れするので,もちろん遊ぶのも忘れなかった.なぜかぼくは遊んで帰ってきたり,飲んで帰ってくると,とても勉強したくなるのだ.なぜだろう?
   博士後期課程の入試は英語と朝鮮語.朝鮮語は現代朝鮮語での論述と,中期朝鮮語の文献について言語学的解釈などが出た.中期朝鮮語は修論でいっぱい触れていたので,特に勉強していかなくても普通に解くことができた.資料を見て文献名を答える問題も,たまたま夏の集中講義で岡山大学のT先生と読んだ分類杜工部詩諺解だったので見てちょっと考えたら分かった.こんな感じでついに博士課程に進学することになった.

 

  大学院時代(博士課程)

   博士後期課程に入学した.後期課程ではまずN先生とM先生の授業を聞いた.その他に土曜日に西ヶ原のキャンパスにまだ残っていたAA研まで行ってN先生の満州語の授業も(単位にはならないけど)聞きに行っていた.(満州語についてはこのページの下の方参照)とりあえず,授業は何も問題なく1年間が終わった.
  ただ, 2001年は学会発表が2回あった.最初は5月に朝鮮語研究会で修士論文を発表した.学会発表ってのは準備とかも大変だけど自分の論文をまた見直す機会になって非常によい.修論を出した時は,これは結構いいだろーと思って書いたものも後で見るとかなりはずかしいなどということはよくある.論文は行き詰ったら少し寝かすのがいいとぼくは思う.人生2度目の学会発表だったがかなり一所懸命書いた論文なので特に緊張もしなかった.秋になると学会発表の話が突然舞い込んできた.外国語教育学会で言語規範について発表するというものだった.もともとはうちの専攻の先生に話が来たのだが,先生方があまりにも忙しくてできないとお断りしたところ,外国語教育学会のK先生(以前トルコ語を習っていたのでお知り合いだった)がぼくのことを覚えていてくださって「では,中島君はどうですか?」と推薦してくれたとのこと.ということで,1ヶ月で朝鮮語の言語規範について発表をしなくてはいけなくなった.これも1ヶ月間色々と調べまくって,アンケート調査をしたりして,1ヶ月で仕上げた割にはまずまずの発表をすることができた.せっかくK先生が推薦してくださったのだから,がんばらなくちゃいけない,それに他に発表する人はみんな先生だったので無様な発表をしてはいけないと,やたらと気合が入ったのがよかったのか?その後,普通は先生しか載せてくれない語研の論集にそれを載せてくれることになって(言語規範についての特集号ということになり,その学会で発表したものを載せることになったため),さらに1ヶ月だかかけて手直しをしまくって無事に論集に載せていただいた.これも,K先生とN先生のおかげである.本当にありがとうございます.その他にも北朝鮮のことを調べるのがちょっと大変だったけど,色々な人が助けてくれた.ここで名前は言いませんが,どうもありがとうございました.
   博士後期課程に入学した2001年度も韓国語を教えるアルバイトをしながら大学に通った.仕事場が神田から九段下に変わったので神保町が歩いていける距離になったのがよかった. 仕事帰りに暇があると意味もなくぶらぶらして,本をつい衝動買いしたりした.生徒さんたちも新しい人たちになったが,みんないい人たちでいまだに連絡をくれる人もいる.
   ぼくが受けていた授業はほとんどが4限,5限だったので大体アルバイトを午前中して,ご飯を食べてから大学に行くことが多かった.そのため,スーツを着ているのが普通だったため新しくゼミに入って来た学生とか留学生とか研究生はぼくが先生かと思っていたらしい.ぼくはあまり口数が多い方ではないので,それもよくなかったみたいだ.大学に行くと先生の研究室で雑用したりしていることが多かったけど,このころになるとぼくがやる仕事はほとんどなくなって後輩のみんながやってくれるので非常に楽になった.まあ,逆にやることがなくなるとさみしくもあるけど.
   5月だか6月くらいに文部科学省のアジア諸国等派遣留学生というのに応募した.面接などの試験があったあと,合格通知が来て夢に見た留学がついに決定した. 派遣期間が10月から2年後の9月までとなっていたが,韓国は学期が9月から始まるので10月からだとうまく入れない.ということで,翌年の3月から行くことにした.入学手続きの際にちょっと問題があり最初の1学期は正規課程ではなく特別受講生という資格で大学に通うことになった.留学先はソウル大学の国語国文科だった.指導教授は李賢熙先生.2月の後半に韓国に渡り部屋などをさがして3月からいよいよ本格的に留学生活が始まった.
   最初はわからないこともたくさんあったが,修士で一緒だったNKNSさんが先に来ていたので色々教えてもらってすごく助かった.とりあえず,最初の学期は高永根先生,李賢熙先生,沈在箕先生の授業を聞いた.日本の授業と違って1コマが3時間もあるし,1回の授業でやる内容も非常に多くて慣れるまで少し大変だった.特に高永根先生の授業では1週間で本を1冊読まなくてはいけないことが度々あってかなり辛かった.
   2学期目になるとかなり大学にも韓国にもだいぶ慣れていたので特に辛いとは思わなかった.宋敏先生,李相億先生,李賢熙先生の授業を聞いたような気がする.どの学期にどの授業を受けたか既に記憶が...宋敏先生の授業では近代朝鮮語を初めて真剣に勉強した.どうせやるなら論文を書くくらいのつもりでやろうと思い,『隣語大方』の朝鮮語について調べまくった.音韻論の知識もあまりなかったので(今もそれ程ないけど)関連の参考文献などを読みながら勉強した.巻1から巻10までカードで用例をとりながら見ていって,それをまとめたものをレポートに出したんだけどカードをとる作業はものすごく時間がかかった.合間に図書館に行っては論文をコピーしては読むを繰り返して,まあ何とか形になった.それを年末日本に帰った時にN先生にお見せしたら,なぜか突然1月の朝鮮語研究会で発表することになってしまった.要するに翌月の発表者がまだ決まってないところに,たまたまぼくが論文を持って行ったのである.そんなつもりで見せた訳ではなかったんだけど,とにかくそうなった.発表しろとの宣告を受けてから発表まで2週間ほど.日本に帰ってきてかなり体調をくずしていたが,発表があるのでがんばって修正をしまくって,韓国に帰る2日前に発表をした.当日は片茂鎭先生などもいらしていて多くの方から貴重な意見が聞けて結果的に発表してとてもよかった.これはその後さらに訂正をして『朝鮮語研究』投稿した.(2005年に出る 3号に載っているはずです.)あと,その1ヶ月前に韓国の国語学会で発表した.修論をさらに直したものを韓国語に訳して発表したんだけど,この時はさすがに緊張した.精神文化研究院のかなり大きいホールで発表した上に,韓国の有名な先生たちがいっぱいいたからだ.発表が始まるまでは緊張していたけど,壇上に上がって喋り始めると緊張も解けて,質問の受け答えもそれなりにできたんじゃないだろうか.その発表もその後さらに修正し,さらに結論部分に変更を加え『國語學』に投稿した.この論文はかなり長い間取り組んでいたけど,今回の修正でかなりよくなったと思う.結局2003年12月に刊行された.
    論文と言えば留学が始まった2002年に立て続けに論文が公刊された.『朝鮮学報』(朝鮮学会),『朝鮮語研究1』(朝鮮語研究会),『語学研究所論集』(東京外大)に載ったのだけど,一番最初に校正刷りを見た時(『朝鮮学報』に載った論文.他の2つは校正刷りがなかった)は何とも言えないうれしさがこみ上げてきた.自分の書いたものが活字になるというのは感動だった.韓国に来てからは当然だけど論文はみんな韓国語で書いている.やっぱりがんばって書いたものだけに韓国の研究者にも読んでもらいたい.いつか誰もが注目するような論文を書きたいものだ.
   2003年の1学期は洪允杓先生と李秉根先生の授業を聞いた.洪允杓先生の授業では書誌学的なことを学べてすっごくよかった.ただ書誌学に関心がない人にはつまらなかったかも知れないけど.李秉根先生の授業では日本であまり読むことがなかった小倉進平先生の論文や周時経先生の本をはじめとする20世紀前半の業績を読む機会があってよかった.2学期にはまた李秉根先生の授業と崔明玉先生,宋基中先生の授業を聞いた.李秉根先生の授業では歴史言語学の基礎知識が(多少ではあるが)身についてためになった.崔明玉先生の方言学の授業でも方言学の基礎と資料の分析方法が学べたし,宋基中先生の授業では朝鮮漢字音についても学べたし,一緒に日本の漢字音についても勉強できてよかった.ただ,先生方が教えてくださった内容をどれほど消化できているかが不安なところである.
   2003年は国民大学校で日本語の非常勤をした.これはなかなかよい経験だった.20人くらいのクラスを2つ.どちらも会話の授業だった.日本語を教えたことはなかったので,最初は緊張したけど,自分でも勉強しながらやった.ただ,学生のレベルがあまりにも違くて,日本語だけで全然問題なく話せる人もいれば,やっとひらがなカナカナが書ける程度の人が同じクラスにいたのである.これは非常に教えにくかった.難しくすればわからない人がいるし,かといってその人たちに合わせるとできる人はつまらないという具合だ.まあでも学生はみんなかわいくて教えること自体は楽しかった.一番嫌なのは成績を出す時.頑張った人にはAをあげたかったけど,相対評価をしなくてはいけなかったので,かなりの人に泣いてもらった.ごめんなさい.授業以外でも学生たちと日本映画を見に行ったり,非常勤が終わったその後もそのうち何人かはたまに会って遊んでもらったりしている.生徒といえば, 日本で韓国語を教えていた人の1人が会社の研修で韓国へ3ヶ月(?)勉強に来ていて(2003年秋),度々連絡をくれて一緒に卓球したり,飲んだりした.韓国語を教えた人がこうやってがんばってくれていると,とてもうれしい.他にも 職場で使ったり,さらに専門的に勉強している人たちもいると聞いている.みなさん,これからもがんばってください.日本語を教えた学生たちも(ぼくは大したことは教えてないけど)これから日本語使っていろんな分野でがんばってくれるといいな.
   2004年の1学期からは忙しくなって,スケジュールがあわず李賢熙先生の中世国語研究したとれなかった.時間がある時はなるべくスタディにも行くようにしていた.2学期は任洪彬先生の系統論をとった.宿題がすごく多かったのと,Poppeの論文を読んで発表したりだったが,すごく細かいところまできいてくるので大変だった.2004年度は週1回しか大学に行けなかったのが残念だった.秋には日本言語文化学会というところで一回発表をした.その時のテーマももっと詳しく調査してまとめたいのだけど,用例分析の段階でとどまっている.2003年は口訣学会に行ったり,夏休みにSGI氏といろいろ勉強したりしてそれなりに充実していた気がする.とりあえず,2004年2月で博士課程は修了ってことになった.あとは博士論文を書くだけ.でも,実はそれが一番大変だったりする.
   2005年になると修了してしまったために,大学の方へ顔を出すことがめっきりと少なくなった.たまに,研究室の集まりがあると行くくらいで,あとは仕事の方に専念していた.1学期が終わって日本に一時帰国していたある日,N先生から連絡があり韓国語教育に関する論文を一緒に書かないかとお誘いを受けた.もちろん,喜んで承諾した.締め切りが1週間くらい前に迫っていたので,とにかく図書館に行って論文をコピーしたり,本を買い集めたり,知ってる先生に論文をもらったりして資料を集めた.久しぶりに徹夜を何日かして作業にあたっていると,N先生から再び連絡が.とある先生が都合で論文を書けなくなったので,それをN先生が書けないかと連絡が学会の方から来たとのこと.「どうする?」というようなことを聞かれたので,乗りかかった船なので「やりましょう!」と答える.その後,何日か先生の研究室に行って作業をしたり,留学生に翻訳を手伝ってもらったりを続けて,何とか2本論文が完成した.時間があまりなかったわりには,内容もかなりつまったいいものができたのではないかと思う.翻訳の確認などをしてくださった方たちに,本当に感謝しています.どうもありがとうございました.夏休みには知り合いも発表することになっていたこともあり,その本を出す国際韓国語教育学会に行った.原稿を出して大して日数も経っていなかったのに,本がもうしっかり完成していて,さすが韓国だと思う.自分のが載っている1巻と3巻をただでもらい,2巻を実費で購入した.N先生も言っていたけど,時間があればもっといいものができたのに少し残念.
   9月には論文資格試験(通称논자시)を受ける.結構緊張して行ったのだけど,専攻の問題は(外国人学生用なので)思ったよりよくできたような気がした.外国語は中国語を受けたんだけど,「孔子がどうのこうの...」というのを訳せってので,辞書持込可だったけど散々な結果に.もちろん,中国語は不合格だった.その後,TEPSを受けて規定の点数になったので,外国語もクリアした.TEPSは回基の近くの高校で受けたんだけど,外人はめずらしいらしく,受験票をチェックする時に,試験 官にじろじろとめずらしそうに見られた.
   あとは12月に知り合いのP先生と一緒に国語学会に行った.学会に行くと出版社が本を売りに来ているので,日本に帰ることになっていたこともあり,お金はないけど,ここぞとばかりに必要な本を購入した.2006年に入って1月は韓国のS社の日本語研修の担当になったので,毎日それをして過ごす.そのうち1名は無事日本に派遣されて先月(2006年6月)に日本で再会した.その人が日本支社で配属になった部署に,ぼくの友達がいたのでその友達と一緒に.世界って狭い.
   朝鮮語とは関係ないけど,教えていた大学院では音声学の基礎的なことをやったり,ウェブを使った作文の遠隔指導をペアでやってみたり,普通の授業でも小道具とか,絵とかを使ったりして,言語教育という面ではそれなりに勉強になった.しかし,論文書こうと思って,用例集めて分析とか少しずつやってたんだけど,項目が多くてものすごく時間がかかって未だに終わっていない.もっと勉強しないといけないなと思った一年だった.
   2006年度で朝鮮語を学びはじめてから12年にわたる学生生活が終わった.今思うと12年もあったのに,一体何を勉強してきたんだろうと思う.これからも,色々な方面でがんばります.

 

  外国語学習歴

今までいろんな言語を勉強してきましたが,身についたと自信を持っていえる言葉はひとつもありません.その中でもまだましなのが朝鮮語と英語でしょうか?

@ 英語(中学〜大学)
   英語は中高大と勉強してきました.ずーっとやってたわけではないですが,8年くらいはやっていたわりにあんまり喋れません.大学時代はアメリカ人が1ヶ月日本に来るというので同居していたり,実家のある箱根町と姉妹都市のカナダのジャスパーに親善交流で20日間くらい行ったり,その前にアメリカに2週間くらいホームステイにいったりしていたので,よく覚えていませんが現在(2003年1月)よりは喋れたんじゃないかと思います.他にも,総務庁の国際交流事業のボランティアに行ったりもしていたので,英語を喋る機会が多かったです.大学院に入ってから英語を話す機会がめっきり減りました.韓国に留学に来てからも何度か英語で話す機会はあったんですが,分からない単語になると突然朝鮮語が頭に浮かんできたりするんです.それなりには話せるんですが,難しい話になると「うーん」とうなってしまいます.英語に触れる機会が減るにつれ昔は知ってたのになーという単語が増えてきて,本気で英語の学院にでも通おうかと思ったりもしました.

A 朝鮮語 (大学1年〜現在)
   これが一番まともかな.上で書いたので省略します.

B トルコ語 (たしか大学3年〜4年)
   今はなき休講広場である時,トルコ語を勉強しませんか?という張り紙を見つけて電話をしたのが始まり.ポーランド語学科のNKNSさんという先輩が,フランス語学科のK先生に6限目(普通の授業は5限まで)に教えてくれるようにお願いしたとのこと.詳しい経緯は忘れてしまったが,とにかく週に1回K先生の研究室でトルコ語を教わり始めた.フランス語学科なのになぜトルコ語?と思う人もいるかもしれないが,先生はフランスに留学する前に,トルコに留学していたという不思議な経歴をお持ちなのである.トルコ語に関する論文も書いている.
   トルコ語は日本語や朝鮮語と同じ膠着語なので他の言語よりとっつきやすかった.最初はH先生が作成した教科書を使って,文字と発音から習っていった.NKNSさんは自分で勉強したことがあるので,色々質問をするんだけど,ぼくは初めてだったので付いていくだけでも精一杯だった.教科書も途中まで来ると,K先生も初級を教えているのはつまらないらしく,実際に文章を読みながら文法も覚えていこうということに.読んだのが中央アジアで発見されたオルホン碑文というもの.どこどこの王様はすっごく強くて,どこまで攻め込んで・・・と言った内容.難しくてとにかく辞書を引きまくった記憶がある.でも,不思議なもので読んでいる内によくでてくる接辞などは分かるようになってきたし,母音調和なんかも結構簡単にできるようになってきた.最後はどうやって終わりになったのかは忘れてしまったけど,朝鮮語以外にまともに続けて外国語はこのトルコ語くらい.K先生にもお世話になった.その後大学院時代に復習も兼ねてトルコ語学科のS先生の授業を聞きに行った.
   とりあえず,トルコ語は辞書を引きまくればなんとか読めるくらいまでにはできるようになった.会話は全然やってないし,講読した文献が文献だけに日常単語とかもあんまり覚えなかったけど.なにはともあれ習ってよかった.あれからトルコ語には全然触れていないので,今読もうとすると難しいと思う.ところで,NKNSさんは飛行機を使わず,学校にでも来るようなちっちゃいリュックひとつ持って,トルコまで行ったことのあるつわものだった.NKNSさんは どこかの大学院に進学したんだけど,その後連絡を取ってないのでどうなったかわからなかったが,その後ポーランド語科の知り合いを通じて連絡がとれて,現在(2003年秋)キルギスタンで研究をしているとのこと.今回キルギスでの研究成果が第5回秋野豊賞を受賞した.おめでとうございます.

C スペイン語 (大学3年)
   第3外国語で卒業単位にはならないんだけど,授業をとってみた.授業は週に2回.最初は結構がんばっていたのだけど,だんだん難しくなるにつれて辛くなってきた.当時,朝鮮語の他にトルコ語も習っていて,同じ日に朝鮮語とトルコ語とスペイン語の授業がある日があった.朝鮮語は専攻なので当然やらなければならないし,トルコ語は先生が貴重な時間をさいて教えてくださっているし,学生も2人しかいないのでこれまた手を抜くわけにはいかない.ということで,予習がだんだんできなくなり,授業からも遠ざかってしまった.今では挨拶くらいしかできない.

D  ドイツ語 (大学4年?)
   いい加減やめればいいのに,また授業を取ってしまった.活用なんかも結構がんばって覚えていたのに,半年くらいでやめてしまい,これも結局ものにならなかった.

E  ツングース諸語 (大学4年)
   これは日本語学科のK先生の授業で勉強.ツングース諸語といっても,エウェンキー語,エウェン語, ネギダル語,オロチ語,ウデヘ語,ナーナイ語,オルチャ語,ウイルタ語(以上ロシア),ソロン語,ヘジェン語,シベ語,満州語(以上中国)といった言葉があるので全部勉強するなんて無理.授業も書けたり話せたりするのを目的としたものではなくて,概論的なものだった.使用地域,文法の特徴,系統論,文化などなど.写真などを見せていただいたりして,とても楽しい授業だった.

F 中国語 (修士1年)
   学部の第2外国語の授業にもぐった.これも結局半年くらいでやめてしまったのだけど,今思うともっと真剣にやればよかったと思う.でも,スペイン語やドイツ語よりは真剣にやった.とりあえず,ピンインは読めるようになったし,ラジオの中国語ニュース聞いててもごくたまに聞き取れる単語があるくらいにはなった.機会を見つけてまた勉強しなおしたい. この時授業を担当していた先生と今たまたま同じ所で働いている.こういうこともあるもんだなと思った.

G ロシア語 (修士2年)
   ウズベキスタンに留学してみたいと思ったのが,ロシア語を勉強し始めたきっかけ.キリル文字は初めてだったのでなれるまでに少し時間がかかったけど,留学という目的があったので結構まじめに勉強した.ところが,学内選考は通ったのだけれど,文部省からはお金が出ないということになってしまった.自費で行けるはずもなく,留学は断念する.行けないとわかると現金な物で,やる気が失せてしまいそれからずっとやっていない.一所懸命覚えたキリル文字も最近読むのですらあやしくなってきた.やはり語学は続けてないとだめだ.留学してたら今頃,ウズベク語とロシア語がそれなりにでもできるようになってたんだろうな.

H 満州語 (博士1年)
   AA研のN先生から学んだ.当時AA研は引越しが終わっていなくて,西ヶ原キャンパスで授業を受けた.毎週土曜日に西ヶ原まで通ったのが懐かしい.授業自体は文字が難しいので文字を解読してアルファベットに置き換えるというのが中心.満州語の文字は語頭,語中,語尾で形が変わるのですごく難しかった.また,後ろに来る母音によって子音の読み方がかわるといったようなこともあった.文字の後は『満州実録』を学生が解読していき,先生が文法の解説をするという方式だった.先生の説明がすごく速いのでノートをとるのだけでも大変だった.当時,修士課程のSGI君と一緒に授業を聞いていたので,2人で覚えた単語を言って遊んだりしていた.満州語は勉強していて楽しい言葉のひとつだった.

I ディべヒ語 (2002年の夏ごろ)
   ディベヒ語は印欧語インド語派(ヒンディー語,シンハラ語など)に属する言語.夏休みにモルジブに旅行に行った時,ターナ文字を見て面白いなーと思ったのがきっかけ.モルジブの首都マーレで本屋を探して,小学生が文字を勉強する書き取り帳みたいなのと,簡単な辞書を購入してくる.空港で旅行会話集も買った.外大の後輩のMTZWさんにお願いして,JICAの図書館にある資料もコピーしてきてもらった.韓国に帰ってきてから夏休みに自分で勉強したのだが,まず文字を解読するので一苦労だった.ディベヒ語の本はまずアルファベットに転写してあるのがほとんどで,しかもその転写方法が統一されてないためにターナ文字で書いた時の語形が想像できないのだ.それでもいろんな本などを対照しながら何とか自分なりにターナ文字で書けるようになった.その後,M先生が編集した『華麗なるインド系文字』(白水社)のターナ文字(Y先生執筆)の部分を見て発音がようやくすっきりとした.ちなみに,この本は色々な文字があって読めなくても見てるだけで面白い.今使っているパソコンではターナ文字も表示可能なようにしてあって一時期,簡単な辞書を作っていたんだけど,作りかけで止まったまま.ディベヒ語はシンハラ語と文法の骨格が似ているので,シンハラ語の文法書で骨格をつかんでから勉強すると分かりやすいとY先生に教えていただいたのだが,シンハラ語の文法書をまだ入手できずにいる.ディベヒ語を使ったのはモルジブに手紙を書いたときに少しだけディベヒ語で書いただけ.もうちょっと勉強して,また遊びに行きたい.


[トップページへ]

[最終更新日時:2011/09/18 21:43:02]